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『欠陥ソフトウェアの経済学』を読んだ。ソフトウェアのベンダや開発者には間違ったインセンティブが与えられており、ユーザの求める方向とは異なる方向に進化している、という話。

第1章 文明の礎
第2章 60億の衝突テスト用ダミー:理不尽なイノベーションと間違ったインセンティブ
第3章 弱さの力:割れた窓と国家の安全
第4章 近視眼的見落とし:スピードに目をくらまされ激動に惑乱される
第5章 完全なる免責:訴えられるものなら訴えてみろ
第6章 オープンソース・ソフトウェア:無料の代償
第7章 進歩は可能か:別の未来へ向かう合理的インセンティブ
エピローグ
注釈 

目次は欠陥ソフトウェアの経済学 その高すぎる代償|Ohmshaより

ソフトウェアのバグを減らして安全にしたり、インターフェイスを整えて使いやすくすることは大事なことである。にもかかわらず、ユーザたちはそれにお金を払おうとしない(というより、それだけの価値をそこに見出せない)。その代わり、ユーザたちはソフトウェアに追加された新機能に対しては(比較的)あっさりと財布のヒモをゆるめる。そのため、ベンダはソフトウェアを安全で使いやすいものにするよりは、先鋭的にするほうに力を注ぐ。結果として、宣伝しやすいがあまり使わない機能ばかりが強化されていく。

というわけでソフトウェアが脆弱なものになるのは、市場経済の働きとユーザのファストフード好きのツープラトン攻撃によるものである。計算機は思ったとおりではなく指示したとおりに動く。それと同じく、ソフトウェアベンダは正しいものではなくユーザがほしがるものを作るのである。基本的には我々がほしがったものしかそこにはない。

というのはソフトウェアの消費者としての自虐であるが、生産者としての自虐もここに含まねばならんだろうと思う。ソフトウェア開発者は基本的に新しい物事が好きである。何かを提案しようとしたとき、既存のものを地味に使いやすくするより、それとは全然関係ない新しい機能をつくるほうが不思議とわくわくする。それにだいたい評価も得やすい。

評価が得やすい理由は前述したソフトウェアの消費者としての自虐がまさにそれであるし、新しい機能をつくるほうが楽しみなのは開発者なら自明である。先週書いたコードを理解するのに1時間はかかるし、1ヶ月も前に書いたコードならそれを見るのにもある程度の覚悟が必要である。気が重いことから逃げようとすると、必然的に新しいコードを書きはじめている。そしてソフトウェアの規模はまた不必要に大きくなり、再構築の可能性を小さなものにしていく。

そういう悪循環に対して開発者個人としてできることはあまりなくて、リファクタリングの機会を多く持ったり、リファクタリングしようとしたら構造ほとんど忘れてましたみたいなことを避けるために定期的にレビューすることが必要だろう。これはどちらかといえばチームとしての取り組みである。

たしかに放っておけばソフトウェアは肥大化・複雑化の一途を辿るだけなので、それを防ぐことが必要ですよ、ということを管理者とかにわかってもらうために読ませる本として、メタファが多用されて親しみやすい本書はなかなか適切だと思う。

余談。上記のとおりある程度技術的なことを把握してると、ひたすらに比喩を読まされることになって若干退屈を感じるきらいもあるのだけど、それを帳消しにできるくらい「エピローグ」が秀逸である。冷戦中、ソフトウェアのバグが引き起こした一触即発の事故の話であるが、どの程度真実かは別にして、男の子なら胸をときめかせること必至の4,5ページであると思う。



こないだひだまりを買ったついでに筒井康隆『銀齢の果て』を買った。


『家族八景』にはじまる七瀬シリーズを読んで以来、『パプリカ』『愛のひだりがわ』と個人的に当たりな作品が連続していたので、筒井康隆の作品は全体的にぼくの好みにマッチしているのかなーと思っていたら、銀齢はいまいちピンとこなかった。というわけでとりあえず本棚にストック。こういう感じで寝かせておくと、数ヶ月や数年を経て読んだときにハマって「何であのとき読まなかったのかわからん」という気持ちになれることがあって好きだ。


そういえば今のところ一番好きな作家である村上春樹の作風にも一時的な飽きを感じたことがあって、もしかするとそれと同じ状況なのかもなーとも思う。


とりあえず、ちょっと嗜好を変えて恋愛小説を読みたいなーと思い、twitterにてオススメの本を教えてもらう。もしかしたらこっちにハマるかも。


以下の3冊をAmazonにて注文。今週中には手に入るはず。



一千一秒の日々

一千一秒の日々






ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)






神様のボート

神様のボート








ひだまりスケッチ (4) (まんがタイムKRコミックス)

ひだまりスケッチ (4) (まんがタイムKRコミックス)





なんとなく本屋さんに立ち寄ったら、ひだまりの新巻を見つけたので購入。4ヶ月ほど前に一気読みしてからハマった。タイミング的にアニメは見れてなくて、周囲のひだまりすとの輪には入れないのが切ない(何の話だ


裏表紙に新キャラがいたので「紗英さん卒業か!!」と思って号泣しそうになったが、読んでいると彼女が2年生であることを思い出す。だいたいの漫画で登場人物の学年を把握できないのが悩みです。まあ卒業しなくてよかった。しかし次はないのだよなーと思うと寂しいですね(´・ω・`)


個人的には、普通科生の登場によって美術科生の特異性が際立っていてうれしかった。ホームセンターで「"何か"作れそうだ」とワクワクするのは工学よりの人間でも同じですよね。あれはすごい共感した。


やっぱり普通と違う価値観を持った人の集団の物語って面白い。げんしけん然り、当事者もそうでない人も楽しめるのが好きだ。誰か工業高専を舞台にしたラブストーリーでも書かない?




id:Waroeに借りて読む。彼は岡本倫のファンらしく、以前同作者の『エルフェンリート』を読んでいたのを見たことがある。というか一部おれも借りて読んだ。



ノノノノ 1 (ヤングジャンプコミックス)

ノノノノ 1 (ヤングジャンプコミックス)





読んだことある人はわかるだろうけど、『エルフェンリート』はかなり読後感の悪い(作品自体は面白いのだよ、念のため)物語で、『ノノノノ。』もそうだろうと類推して敬遠していた。


ところが一部読んでそうではないことがわかった。むしろ『ノノノノ。』には爽快感というか清涼感のあるエピソードが多い。巻が進むにつれてだんだんとドス黒い描写が目立ってくるものの、まあ最後には序盤のラブコメや少年漫画のようなノリに戻るんじゃないかなーと思って安心して読んでる。そういう意味ではかなり前作の呪いを受けている作家だと思う。


富樫が帯で書いてるのと同じようなことなんだけど(なんで富樫が?)、ひねくれた作品(もちろんその「ひねくれ」が面白いという前提において)が多い今、逆に王道の展開を利用することで意外性が演出されている。どうみても悪いやつが悪くて、味方の悪そうなやつには純朴な一面があって、主人公は最高に強い。


そういった王道的な要素が、『エルフェンリート』の作者としてふさわしく複雑で、凄惨ともいえる状況の中に散りばめられている。それが不思議なくらい新鮮に映るのだよなー。


というわけで新刊待望中。




ひさびさの学校で、長期休み明け恒例のホームルームの時間に、担任の先生から『デジタルネイティブ~次代を変える若者たちの肖像~』なる本を受け取る。昨年10月暮れに放送された、NHKスペシャル『デジタルネイティブ』の書籍版。著者であり、同番組のディレクターである三村氏からいただいた。ぼくなんかにホント、感謝です。


番組の時間という制約を受けずに、取材内容を事細かに伝えられるという意味では、テレビよりも書籍のほうが全然優れている。ぶっちゃけ映像というのは宣伝程度にしか使えないんじゃないか、とときどき思う。テレビのテンポでは、伝えがたいことが多すぎるのだ。


ところでid:lonlon2007は受験生にもかかわらず既に感想を書いている。さすがデジタルネイティブといったところ。ぼくはデジタルネイティブだとかよりも高専属性のほうが強いので、だらだらとした感想のようなものをプリッツなどかじりつつ、のんびり書いてます。


さて「このタイミングでひねくれたことを言わなければ高専生じゃない」というわけなので。


同書より引用:



留意しなければならなかったのは、デジタルネイティブを過去のいわゆる「天才コンピュータ少年」と一緒にしてはいけないということだった。コンピュータ黎明期から、デジタル技術への順応度が高い子どもが大人を驚かせることは少なくない。(中略)つまり、技術的に早熟な若者たちは、いつの時代にもいたのである。


生まれたときからインターネットがあり、ネットを水や空気のように感じてきた現代の若者だからこその「世界観」や「価値観」を持っていること。そして、そのことが特定の天才少年ではなく、どんな子どもたちにも当てはまると感じられること。



昨年10月にNHKスペシャル『デジタルネイティブ』を見た方、あるいは2009年1月10日に発売される同書を読んだ方に問いたい。


「特定の天才少年ではなく、どんな子どもたちにも当てはまる」と感じられただろうか?


Yes, と答えられる方はごく少数にとどまるんじゃないだろうか、と思う。少なくともぼくはNoで答える。どう考えてもこれは「いつの時代にもいた」「技術的に早熟な」「特定の天才少年」または「若者」の話だ。


同書でも引用されているように、id:lonlon2007は指摘する:



例えば番組では15歳にしてカードゲーム会社のCEOとなっているインド人を特集していたんだけれども、彼はデジタルネイティブというかむしろ別のもっと凄い何かだ。確かに彼が活躍できているのはインターネットのお陰に他ならないんだけれども、彼をデジタルネイティブという枠にくくるのは違うかなと思った。


デジタルネイティブ特集について一言 - 大学生超奮闘記

そう、根本的に違う。


若者や少年少女の中に、特定の能力が専門家なみに突出している人物はいる。サマーくんの起業にかける情熱やそのための行動力は既に実績のある実業家も顔負けのもので、それは尊敬に値する。あれは彼でなければできない芸当だろう。


その「彼でなければできない」というのが問題。


逆に言えば、「彼であればできる」のだ。21世紀の現代に、もしネットワークインフラが整備されておらず、インターネットが普及していなくても、何らかの(おそらくは普通のやつらの上を行くような)方法で成し遂げたはずだ。「インターネットがあればこそだよ」と思う人もいるかもしれないが、逆にインターネットがあるからといって貴方は同じことをしようと考えただろうか?我々には思いつかない戦略を採れるから、サマーくんは尊敬に値するんじゃないかな。


id:jkondoさんにしてもそう、今回の特集と書籍に登場する人物はみな「一点特化型」の傾向が少なからずある。いや、むしろ今回の取材対象となった材料もそれに拠るものがほとんどだろう。


なるほど伝記は面白い。だけどそれって、"過去のいわゆる「天才コンピュータ少年」と一緒"じゃないのだろうか?


id:lonlon2007の心に生まれた違和感の正体は、これだと思う。ぼくも何か違和感があったけど、番組を見た段階では言葉にはできなかった。それが同書の引用部分によってぴったりと符号した。『デジタルネイティブ』で特集されていたのが、デジタルネイティブではなかったからだ。


「どんな子どもたちにも当てはまる」という点から言えば、巷の女子高生のほうがよっぽどデジタルネイティブだ。みんないわゆるデジタル技術の塊であるケータイを使いこなしているし、それどころかそれに依存するようなライフスタイルを送る。少なくとも日本の子どもたちは普通、トレーディングカードビジネスを興したりはしない。起業する者自体、ごく少数の内の一部だ。


じゃ、デジタルネイティブとはなんだったのか?


その正体は特定個人や組織ではなく、情勢・現象だ。


少年少女が人生を歩む中で、たびたび厄介な問題や面倒ごとに遭遇する。それを解決するツールとして、デジタル技術と呼ばれるものが普及してる現代こそが、現象・デジタルネイティブの正体だ。


著者のいうとおり、昔から先進的な若者はいた。電子技術にも先駆けがいる。しかしその先駆けは極めて少数で、「天才コンピュータ少年」というのがまさにそれを指す。


それと区別すべきなのは、「ソフトウェアだけで具体的な効果を得られるようになった」ことだ。さらにいえば「入門コストがほぼなくなった」こと、「ユーザがユーザに向けてサービスを提供できるようになった」こと。これが決定的な違いだ。


天才コンピュータ少年は、何らかの方法で得た機材を使って作品を作ることができた。しかしそれを流通させるためには、結局企業に持ち込んで製品化してもらう必要があった。だから天才コンピュータ少年は、彼自体が表舞台に立つには起業する必要があった。


現在では、インターネット環境さえあればWeb開発の環境などは無料で揃えられる。公開も一瞬で完了する。それは個人的なものだから、ものすごく不完全だ。だけどそれが大切なことなのだろう。


まだ枯れていない技術の世界にほとんどの若者が足を踏み入れている。


"デジタルネイティブ"とは、そういった情勢のことを表現したくて生まれてきた言葉だと思う。誰がデジタルネイティブだとか、そういうことではないのだ。ぶっちゃけていえばこれはただの流行りに他ならないのではないか、とすら思う。


だって冷静に考えてみてほしい、特定個人を指すのなら「デジタルネイティブ」なんて言葉は必要なかった。天才コンピュータ少年とかでよかったんだ。


というわけで、散々書いたけど同書は面白かったです。特にはてなの章。組織形成に関するid:jkondoさんの考え方が独特でした。まあそういったところを形容する何らかの言葉はほしいけど、でもやっぱそれって"デジタルネイティブ"とは違うと思うんだよなあ。


発売は1月10日。ちなみにAmazonでは既に売ってます。




このところ、一日に一冊本を読むという俺にとっては無謀な試みを実行していて、ときどき書評じみたものを書いたりしてる。


してるんだけど、この書評を書くという行為がえらく時間がかかる。時間がかかるわりには面白くなくて、かつ書きあがった書評も大して面白くない。たぶん文章を書くのは好きなだけで得意じゃないんだろう。


というわけで、書評を文章で書くという考えを捨てようと思う。


文章以外に書評というコンテンツを表現する方法として、以下の3つを考えた。



  1. グラフ化

  2. プレゼン

  3. 4コマ漫画


id:rosylillyに相談したところ、4コマ漫画はない、とのこと。明らかに体力が続かない。自分でもそう思う。毎日描ける気がしない。文章で書くよりひどいだろう。


曰く、プレゼンが良さそうとのこと。


そしてプレゼンであればグラフ化との併用もできる。というかプレゼンはグラフ化を含む。


そういうわけでこれから書評をプレゼンという形で作ろうと思う。


プレゼンを作るにあたって、S6を使うかGoogleドキュメントを使うか悩んでるところ。




孔子『論語』の読みやすい表現による訳書。その読みやすさたるや、従来「宴」と訳されてきたところを「カラオケ」とまで噛み砕いてしまう。


少しボリューム不足感はあるものの、『論語』を読んだことのない俺にとっては入門にちょうどよかった。


と、思っていたらどうやら普通の高校では国語の授業で『論語』をやるらしい。ちょっとカルチャーショック。ディベートより『論語』がいいなあ。


孔子の言葉はなかなかに素敵なものばかりで、読んだことのない俺も現代的な訳のおかげで理解に易かった。自分の想いをそのまま言い表してくれている部分もある。昔の人はすごい。


ただ、やはり時間の隔たりはあって、共感を抱けない部分もある。


孔子はたびたび、あまり大声でものを主張してはいけないよ、というようなことを説いている。もちろん物理的に大声というわけでなくて、アピールの度合いという意味だ。


これは俺を含む現代の人々の意見と真逆だ。少なくとも俺の今年の目標は自己主張することを恐れないこと。


孔子が言っていたからといってそれを変えてしまうのでは、それこそ子に申し訳ない。とりあえず今は考えを改めずに、子の言葉は心に留めて、いつかそのことが理解できたときにこの本のことを思い出そうと思う。


宗教が好きな人の気持ちが少しわかった一冊でした。





モチベーションを失っているときは、夢を失っているときです。がっかりしているときは、ワクワクする夢が見えていないときです。(中略)


そのときは親しい人と、未来について語り合ってみてください。



落ち込むことが何度もある。大きくなるにつれて浮き沈みの幅は小さくなってきたものの、大人たちを見ている限りでは、たぶん安定することはないように思う。


避けられず落ち込んでしまうなら、立ち直るのはなるべく早いほうがいい。落ち込んでいるときにしか見つけられない感動もあるだろうが、生産性が落ちるのは間違いない。


さっさと平常心を取り戻してしまうのが得策だ。落ち込むのは、落ち込んでいる余裕のあるときに思いっきり落ち込んでおけばいい。



ちょいデキ! (文春新書)

ちょいデキ! (文春新書)





『ちょいデキ!』は、サイボウズ社長の青野慶久さんの著書。404 Blog Not Foundで紹介されていて、その翌日に書店で見かけたので購入。配置的に普段から目にしていたはずなのだけど、人間って不思議なもので、知らないと気づくことさえできないみたいだ。注意力の重要性を痛感する。


"北斗神拳"より"太極拳"――「大して効果は大きくないかも知れないけど、誰もがちょっとデキる人になれる」仕事術を、本書で紹介している。


その中で特に興味を惹かれたのが、冒頭で引用した「モチベーションを失っていませんか?」での記述。



モチベーションを失っているときは、夢を失っているときです。がっかりしているときは、ワクワクする夢が見えていないときです。(中略)


そのときは親しい人と、未来について語り合ってみてください。



幸い俺の仲の良い友人たちの中には、向上心を持っている人が何人もいる。具体的に名前を挙げるとアレかなと思うので控えるけど、そういう人たちと話をしていると、すごく面白いアイデアが産まれることもある。それは別に未来についての話題に限ってのことじゃない。


落ち込んだときに未来についての話をするのは、少し痛みを伴う。そのままの気持ちでいたらどうしようもなくて、そのどうしようもない未来が頭をかすめるんだ。油断すると、妄想もバッドエンドに向かってしまう。


だから考えるだけじゃなくて「語り合う」必要がある。落ち込んだ気持ちは自分を悪いほうに引っ張るけど、その力は話し相手にまでは及ばない。そして明るい未来に導いてもらえる。


落ち込んだときには、平常心を取り戻すために、誰かに手伝ってもらう。


そしてそのお礼に、落ち込んだ誰かを明るい未来に導いてあげられればもっと良い。それは自分がひとりで悩むのよりも苦しいけど、意外と楽しいかもしれない。自分のアンテナの届かなかった面白い話を聞けるかもしれないし。


一番大事なのは、悩んでるのが自分にせよ相手にせよ、未来の話を恥ずかしがらないことだ。照れて変に現実的な話をしちゃったら意味がないんだ。



「恥ずかしい」のは自分の勝手な都合です。



だという。


"子曰く、徳は孤ならず。必ず隣あり"――自分の夢とか未来への希望を笑われたって、そんなことを気にする必要はない。いつか理解者が現れたり、実現する。


俺は、自分がすべての夢や未来観に理解を示せるとは思えない。表面上取り繕って同調したふりをしても意味がない。ちゃんと考えて、理解できないところは聞き返して、賛同できないところには反論をしようと思う。


それで良ければ、ぜひ色んな人と夢とか未来の話がしたい。落ち込んでいるときでもいないときでもいい。


そして最大の目標は、誰かが落ち込んでいるのを察知して、未来の話を振れるようになりたい。そのためなら、そのとき一時的に嫌がられても構わないと思う。





勉強をしたいという気持ちがあるなら、大学へ行く必要などありません。



少なからず感づいていた。今の世の中、大抵の情報はWebから得ることができる。疑問の答えも、ちょっとググってやれば手に入る。


じゃあ、デキる人とそうでない人の差はなんなのか。明らかに後者に属する俺だけど、Webを活用して情報を探し、選別することくらいはできる。むしろその辺りの能力には標準より長けていると思う。


その答えは単純。「強化学習」だという。


早い話、経験の差だ。



脳を活かす勉強法

脳を活かす勉強法





Webを活用する能力ったって、実際のところそれは誰にだってできる。ただGoogleの入力ボックスに気になる単語を入力して、エンターキーを押せばそれでいい。表示された結果の中に間違った情報や同名の別物に関する情報が混ざっていたって、まとめて飲み込んでしまえばそれも余分に知識になるだけ。損をするわけじゃない。


事実上、知識は均一化されたみたいなものだ。知っているか、いないかの差は検索する手間しかない。それが惜しいほど時間が致命的に影響する状況って、クイズくらいなもんじゃないだろうか。


クイズの正答率を向上させるために学校に行くのか?十代の持つエネルギーは莫大で、そのために貴重だ。人生を決定づける、どうあがいても戻れない時間を、クイズに答えるための学校に1/2近くも捧げるなんてもったいない。



「君たち、大学にいてもしかたがないから、さっさと辞めて起業しろよ!スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも、みんな大学中退だぞ!大学なんかにいても、何の役にも立たないから、さっさと辞めてしまえ」



茂木健一郎氏は東大「駒場祭」で、IT起業の若い経営者がこんなことを言っているのを聞いたそうだ。


大学にいても役に立たない。東大ですらそんな言われようだ。俺は東大どころか大学にも行ったことがないからきちんとしたことは言えないけど、小学校・中学校・高校で考えたことを思うと、確かに役に立たないかもしれないという気になる。


正確にはそうじゃないと思う。学校は必要なんだ。そう思うけど、今の学校なら行く必要はない。


本当は、学校のありかたがちょっと間違ってるだけなんじゃないか。


現代の学校は、経験を積むための場であるべきなんだ。クイズに答えるために知識をかっ食らうことはもう必要ない。時代は変わった。


知っているに越したことはないけど、知っていることは大したことではない。知識は均一化されたんだ。


どれだけググったって出てこないのは「経験」だ。どう考え、どう動き、どうなり、どうしたか。自分の身に巻き起こったすべてを、メディアを介すことによるロスなく得られるのはあなただけだ。体験記みたいな記事はそのある一側面しか投影していない。


だから、学生の「やってみたい!」「挑戦したい!」気持ちをサポートしてほしい。経験することを阻害する障壁を、なるべく取り払ってあげてほしい。お願いだから「前例がないから」なんて馬鹿げた理由でチャレンジを妨げないでほしい。


自分が失敗や喜びを経て得た経験は、人生をより輝かしく活きるための強力な武器になる。それに不思議と、クイズに答えるのも速くなるよ。経験は常に知ることを含んでるからね。



勉強をしたいという気持ちがあるなら、大学へ行く必要などありません。



今の学校は、自分自身がこの時代にどうあるべきか悩んでる。時代に即したスタイルでいることが適切なんだけど、学校は身軽じゃないから適応できないでいる。ちゃんと適応できれば、やっぱ学校って必要じゃん!ってなる。昔とは時代が変わるわけだから、もしかしたら学生たちも「学校っていいな」って思うようになるかもしれない。そうなったら教育にとっちゃ革命だ。


オトナの人たちは学校をぜひ導いてあげてほしい。教育とか国とかを憂うなら、そうする責任がある。この先それを変えていけるのはあなた方だけだし、あなた方がやるから意味があるんだ。今度は「誰かがやるでしょ」じゃダメだったことをしっかり意識してほしい。


以上、10年後の自分たちの世代へ。




なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?


興味深い



  • 「心理的な安全」があるかないかという発想: 心理的に安全でない環境では人は防御的になる

  • 「ワーク&ライフスタイルに大きな違いがあると、チームワークに支障が出やすい」

  • 「乗っているのはランドクルーザーではなく、軽自動車だったという感じです。どんなに走りたくても、厳しい環境では前に進まないのです」

  • 「"プロセスの見える化"が絶対に必要」

  • 「疫病が広がっている地域で家族が倒れている場所において、どうして疫病が広がったのか、どうすれば二度とこんな事態が起きないようにできるのかを、冷静に考えられるだろうか」

  • 「本当の狙いは、新人よりも二年目の社員を育てること」

  • 「おばあちゃん効果」

  • Doing, Feeling, Being

  • 「educationの語源はラテン語で、そこには「引き出す」という意味があります」

  • 強制力: 低← 委任 - 意見 - 提案 - 要求 - 指示 - 命令 →高

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